行動の人アラン 戦地へ赴く 100分de名著 [アランの幸福論]
こんにちは。
【トップダウンの幸せ】はちょっと横において、
今日は、アランのエッ・・・と思う行動と、下の言葉をご紹介したいです。
【幸福とはすべて、本質的な意味において詩(ポエジー)であり、
詩という言葉は行動を意味する。】
アランは戦争に反対の立場にいて、しかも兵役は免除されていたにもかかわらず、
戦争に赴くのです。
本から抜粋してみましょう。*****
彼は批判するだけではなく行動するべきであると考え、
「銃後の社会に蔓延するであろう欺瞞のほうが、自分は恐ろしい」。として従軍するのです。
また、「実はあの戦争の物語のなかに、ほかならぬデカルトの姿を見つけたかったからである。」
というように、デカルトが三十年戦争の志願兵であったことも強く意識していたようです。
アランがここで見たものは、(戦場で)極限の状態のなかで、
冷静に任務を実行する兵士たちの姿でした。
・・・・・(以下は、文章の順序を分かりやすいように多少変えてあります。mame)
現場では、誰もがきびきびと、確実に仕事をしなければならない。
アランは無名の若者たちの仕事ぶりを見て、
「ああ、これが人間なんだ」と実感したのです。
・・・・・
アランは「戦争は人々の退屈の現れである。
自分で不安をつくりだし、それに夢中になる。
そういう贅沢な感情が、貧しい人々にとっては最大の重荷になる」
と戦争と情念の関係についても述べています。
・・・・・
幸福は自分の「手づくり」である。
情念は「やぶだらけの広大な原野」である・・・
「情念を否定しようとしているわけではない」
情念は自分そのもので、そもそも情念を一掃するなど人間にはできません。
ですから情念を否定したり、それから逃げるのではなく、
この「原野」をみずからの手で開墾しなければならないのです。
そして、ここからがもっとも大切な部分ですが、
アランは情念を制御するための最高の治療薬は「高邁の心」であると説きました。
・・・・
高慢にも卑下にも陥らないぎりぎりのところで自分を大切にしながら、自分を形成し制御していく―
これが言ってみれば「汝自身を知れ」という言葉の実践になります。
高邁の心を持って「自分の気分を開墾する」ことは、理屈で持って考えるのをやめ、 行動することです。
そしてその行動も人に命令されて行動するのではなく、
自分の意志でもって能動的に行動することだとアランは説いています。
「幸福とはすべて、本質的な意味において詩(ポエジー)であり、 詩という言葉は行動を意味する」とも言っています。
「ポエジー」とはフランス語で「詩」のことですが、ギリシャ語で「つくる」を意味する「ポイエイン」が語源です。
ですから「幸福はすべてポエジーである」とは、
「幸福は自分の力でつくりだすもの」と同義です。
この「つくりだす」という意味の「ポエジー」を、アランは「意志」「努力」「行動」という言葉で表現していくのですが、その前に、そもそもどうして「待っている」だけでは幸福になれないのかを考えてみましょう。
以上が、本よりの長い抜粋でした。*****
長すぎました。。。
情念の荒野・・・自分の荒れ狂った情念を静めてコントロールしていくために、その荒野を耕さなければならない・・・ということなのでしょう。
人間は生まれてそのままでは、粗野な人間となってしまうのでしょう。
耕すことで、より人間らしくなっていく・・・とそのように感じました。
高邁な~~という言葉は、じつは新渡戸稲造氏も好きな言葉ですよね。
高邁・・・という言葉は、実はアリストテレスもデカルトも使っていた言葉で、
過ぎると虚栄、不足だと卑屈になる心の持ち方。中庸の徳の一種となっています。
気高さ、自尊感・・・ともつながる言葉だそうです。
ポエジーに関しては、普段気に留めないことに、ふと気を留めたとき(これが行動!)
そこに焦点を当てたことで、光りだす世界☆
気に留めることがなければ、その幸福を感じられなかったであろう。
でも、気に留める事で、その世界が輝き、幸福感へとつながっていく。
そんなイメージが浮かんできました。
明日も、この続きを~と思っています。
【トップダウンの幸せ】はちょっと横において、
今日は、アランのエッ・・・と思う行動と、下の言葉をご紹介したいです。
【幸福とはすべて、本質的な意味において詩(ポエジー)であり、
詩という言葉は行動を意味する。】
アランは戦争に反対の立場にいて、しかも兵役は免除されていたにもかかわらず、
戦争に赴くのです。
アラン『幸福論』 2011年11月 (100分 de 名著)
- 作者:
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2011/10/25
- メディア: ムック
本から抜粋してみましょう。*****
彼は批判するだけではなく行動するべきであると考え、
「銃後の社会に蔓延するであろう欺瞞のほうが、自分は恐ろしい」。として従軍するのです。
また、「実はあの戦争の物語のなかに、ほかならぬデカルトの姿を見つけたかったからである。」
というように、デカルトが三十年戦争の志願兵であったことも強く意識していたようです。
アランがここで見たものは、(戦場で)極限の状態のなかで、
冷静に任務を実行する兵士たちの姿でした。
・・・・・(以下は、文章の順序を分かりやすいように多少変えてあります。mame)
現場では、誰もがきびきびと、確実に仕事をしなければならない。
アランは無名の若者たちの仕事ぶりを見て、
「ああ、これが人間なんだ」と実感したのです。
・・・・・
アランは「戦争は人々の退屈の現れである。
自分で不安をつくりだし、それに夢中になる。
そういう贅沢な感情が、貧しい人々にとっては最大の重荷になる」
と戦争と情念の関係についても述べています。
・・・・・
幸福は自分の「手づくり」である。
情念は「やぶだらけの広大な原野」である・・・
「情念を否定しようとしているわけではない」
情念は自分そのもので、そもそも情念を一掃するなど人間にはできません。
ですから情念を否定したり、それから逃げるのではなく、
この「原野」をみずからの手で開墾しなければならないのです。
そして、ここからがもっとも大切な部分ですが、
アランは情念を制御するための最高の治療薬は「高邁の心」であると説きました。
・・・・
高慢にも卑下にも陥らないぎりぎりのところで自分を大切にしながら、自分を形成し制御していく―
これが言ってみれば「汝自身を知れ」という言葉の実践になります。
高邁の心を持って「自分の気分を開墾する」ことは、理屈で持って考えるのをやめ、 行動することです。
そしてその行動も人に命令されて行動するのではなく、
自分の意志でもって能動的に行動することだとアランは説いています。
「幸福とはすべて、本質的な意味において詩(ポエジー)であり、 詩という言葉は行動を意味する」とも言っています。
「ポエジー」とはフランス語で「詩」のことですが、ギリシャ語で「つくる」を意味する「ポイエイン」が語源です。
ですから「幸福はすべてポエジーである」とは、
「幸福は自分の力でつくりだすもの」と同義です。
この「つくりだす」という意味の「ポエジー」を、アランは「意志」「努力」「行動」という言葉で表現していくのですが、その前に、そもそもどうして「待っている」だけでは幸福になれないのかを考えてみましょう。
以上が、本よりの長い抜粋でした。*****
長すぎました。。。
情念の荒野・・・自分の荒れ狂った情念を静めてコントロールしていくために、その荒野を耕さなければならない・・・ということなのでしょう。
人間は生まれてそのままでは、粗野な人間となってしまうのでしょう。
耕すことで、より人間らしくなっていく・・・とそのように感じました。
高邁な~~という言葉は、じつは新渡戸稲造氏も好きな言葉ですよね。
高邁・・・という言葉は、実はアリストテレスもデカルトも使っていた言葉で、
過ぎると虚栄、不足だと卑屈になる心の持ち方。中庸の徳の一種となっています。
気高さ、自尊感・・・ともつながる言葉だそうです。
ポエジーに関しては、普段気に留めないことに、ふと気を留めたとき(これが行動!)
そこに焦点を当てたことで、光りだす世界☆
気に留めることがなければ、その幸福を感じられなかったであろう。
でも、気に留める事で、その世界が輝き、幸福感へとつながっていく。
そんなイメージが浮かんできました。
明日も、この続きを~と思っています。
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