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【野を開く鍵】 2. 中沢新一 [芸術]

こんにちは。

大きな文字で書いてみたいと思います。

【野を開く鍵】は多摩美の学生に対して書いた文章のようです。

以下 抜粋です。

教育や家庭の環境やメディアを通して、僕たちの感覚や思考は一定の水準に合うように、知らず知らずのうちに飼いならされてしまっている。

そうして自分の感覚や思考が「野生の状態」を生きていたことを、忘れてしまっている。

しかしそれはたんに忘れられているだけで、その野生は生命と直結した無意識の奥で、しっかり生き残っているのである。

無意識の奥に潜在している感覚と思考の野生を目覚めさせ、立ち上がらせ、それに表現をあたえることのできる知性のかたちをぼくは「芸術」と呼ぼうと思う。

いや、そういう知性のかたちのことだけが、芸術という名にあたいするし、そういう意味での芸術はファインアートの領域を超えて、人間の生き方の全領域みいだしていくことができるだろう。

そう考えると、芸術の存在価値は大きい。

いまもぼくたちの無意識の奥にいる野生の感覚と思考を呼び覚まし、活用することができない限り、いきづまってしまっている今日の人間の世界に、未来の風が吹き込んでくる窓をひらくことなどはできない。

人間の感覚と思考にとっての「野を開く鍵」は、かならず存在するが、それは学ばなければ開かれてこない。

以上抜粋でした。

この色は、私のコメントです。・・・・
私自身、子育てなどで、本能がきっと助けてくれる~と思いつつ、実際にその場に立つと、ぜんぜん本能的には動けずに・・・ということがありました。
また幼稚園などの一糸乱れぬ・・・というのを見て、何かが違う!と感じることもありました。本能とは、野生とは、悪者のようにいつも抑えつけられている・・・・と、いまの教育の現場では感じられるのです。

しかし、本当の野生・・・本能とは、中沢新一氏の文章にもあるように、生命と直結したものだと思います。イザという時に絶対になくてはならないチカラ!が潜んでいると思うのです。その感覚を抑えるのではなく、必要なときにはチカラに変換できるようにしておかねばならない・・・外に出していくチカラの根源が野生、本能、であるような気がしているのです。

野性や本能とは若干違いますが、悲しいときには人目が在ろうがなかろうが泣く、悔しい時には、悔しがる、美しいものを見たときには「おお~」っと感嘆の声を上げる、怒りがこみ上げてきた時には怒る、そうやっているうちに、人間本来の感性・感覚が研ぎ澄まされてこないだろうか?その感性・感覚がやがては本能を目覚めさせる起爆剤になるんじゃなかろうか~と、そう思います。生きている実感を感じ取ること!それが、今の人間に希薄なんじゃないかな==?とも・・・
もっと生命が喜ぶことを、素直に表現していく・・・それが生きていくことのパワーに変換されていくんじゃないかと思うのです。

中沢氏とは言いたいことがぜんぜん違っているかもしれませんが、私が自分の身近なこの周辺を見回してみて、またこの紙を読んで感じたことでした。



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夏炉冬扇

お早うご゛さいます、。
早速のご来訪ありがとうございます。
今副産物の「ニンニクの芽」を食べていますが、そんな感じなのかなと思いました。
田舎で土日に「ぎゅゃらりぃ」をしています。
またお遊びにぜひ。

by 夏炉冬扇 (2012-05-08 08:27) 

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